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明暦2年(1656年)小川村が開かれると、玉川上水から樋口一尺四方の分水をうけ、村の入り口で青梅街道の南と北の水路に分かれ、村の飲料水として利用されていました。享保年間以降に小川新田・大沼田新田が開かれると、その末流が村々の飲料水になりました。この分水には水車が盛んに仕掛けられるになりましたが、そのほとんどは自家用ではなく商売用として脱穀・製粉するためのもので、「上水記」によれば、天明8年(1788年)の調べで、玉川上水の分水にかかる水車は33か所にものぼりました。